たそがれBranch

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強さのニヒリズム

若い頃、しばらく哲学書にハマっていた時期があります。

といっても、当時厨二病をこじらせていて(今もこじらせているのですが)、哲学書を読むというのも単に「そういう難しいの読むぼく、いい」みたいなファッションとして読んでました。

ぼくが読んだ限り、哲学の本は一体何を言いたいのか全然わからんという類のものがほとんどで、ぼくの理解力が乏しいというのもあるのでしょうが、どの本も何度読み返してもちっとも内容が頭に入ってきません。 表象だとか、物自体だとか、形而上学的だとか、アンチノミーだとか、そんな硬くて偉そうな言葉が哲学本という文字の荒れ地の上にごろごろとした石ころみたいにあちこち転がっており、それらを砕いて意味という中身を知ろうとしても結局は砕かれた未知の石ころの破片が増えるだけという有様で、ただ言葉を砕いて中を知ろうとしてしまったがばっかりに砕く前に見ていた風景とはほんのちょっとだけ見え方が変わってしまって、その差異をうまく自分の目で飲み込むことができず、一体ぼくが眺めている(いた)風景は本当にその哲学書で表現したいものなのか、それともそもそもそんな風景なんてものは最初から存在しないのかが解らなくなって、途方にくれてしまうという有様です。そのくせ、哲学の毒は少しずつでも確実に読む人を蝕み、見え方を歪ませ、精神的な「嘘」に敏感になっていきます(と、すくなくとも厨二病を患ってたぼくは感じていました)。

そして今でも、その頃に読んだ内容は価値観としてぼくの中に根付いています。 色々な人から影響は受けたのですが、中でも一番影響を受けたのは、厨二病患者ならみんな大好き、ニーチェです。みんな好むものだから、斜に構えてむしろ嫌いだと仰るアドバンスド厨二病患者も最近はちらほらと見かけますね。なので、今回はニーチェの「ニヒリズム」に限定して書いていこうかなと思ってます。

ぼくも影響を受けてニヒリストではあるのですが、ただ、最初は彼の書籍から直接ニヒリズムを支持するようになったわけではありません。というより、彼の書籍のどこでニヒリズムについて具体的に触れられていたのかは結局最後までよくわからないままでした。「神は死んだ」という発言は何度か見かけましたが、彼が最後の方に書いた書籍は「もうこの人気が狂いはじめてるな」としか思えなかったし、難解で理解できませんでした。あるいは、単にぼくが読んだことのない書籍にかかれているのかもしれません。 そんなぼくがニヒリズムを知ったのは、ニーチェの解説本を通じてでした。そして、解説本から入る人にはおそらく陥りがちと思われる、弱さのニヒリズムにしばらくの間毒されていました。

存在に価値はないし、生きていることにも価値はない。この世界そのものにも目的や価値など存在しない。今なにかが起きているとすれば、それはただ「起きている」だけであり、それ以上の意味は存在しない。 この言葉は、もともと自分の存在に価値を見いだせずにいる者にとって、とても快く響きます。今まで自分の中だけに存在した無価値が、これまでからこれからも目にし、耳にし、指にふれる全ての対象へ膨らんでいく様は、フロイトの言う「死の欲動」を刺激し、テーブルから今にも落ちるか落ちないかわからない優柔不断なガラス瓶がついに落ちて床に砕け散ってしまった後に感じるような妙な安心感を覚えました。 もともと全ては無価値なのだ。自分が生きようが死のうがどうでもいいし、何をしようと何も変わらない、という思いは、水を吸った苔のように自分の中に浸透して膨らんでいき、ただ流されるままに生きていけばいいし、それで死にたくなれば死ねばいいという負の気軽さを感じさせました。

その中で、「ツァラトゥストラはこう言った」という書籍を読みました。 正直なところ、これもとても難解で、やっぱりこの人気が狂ってるというような印象を最初に感じました。その書籍には「永劫回帰」と後に言われる思想が展開されています。 永劫回帰について、わかりやすく説明すると以下になります。 (ただ、わかりやすく説明しようとする限り、おそらく真の意味からは遠ざかっているかとは思いますが)

もしも物質が有限で、時間が無限であり、今という瞬間は物質の並びによる組み合わせによって成り立っているとするならば、今という瞬間の組み合わせは過去にも無限回試行され、未来にも無限回試行される。

そこから更に思想を発展させると、無限という時間の中、今の自分の人生とまるきり同じもの、嬉しかったこともつらかったことも含め、生まれる瞬間から死ぬ瞬間まで全て、過去に無限回生き、未来にも無限回生きることになることになります。そのことをニーチェは「存在の車輪は永遠に回る」と表現しています。

それは輪廻転生とかとはまるきり違います。むしろ決定論的なもので、ものすごく辛いことも含めてすでにもう決まっていることで、そこからは何をどうやっても逃れることはできず、今まで無限回経験したことをさも初めて経験するかのように経験しなおすことになり、未来にも無限回経験しつづけることになることを指しています。 順風満帆な人生であればそれもやぶさかではないかもしれませんが、ほとんどの場合、人生とはつらいものです。良いことや成功もたまにはあるでしょうが、様々な失敗、裏切り、幻滅、絶望、孤独がついて回り、どの人にも最後には最後まで経験することができない死が待っています。死は大抵の場合は壮絶なものです。自分の外見や内面にコンプレックスがあったとしても、そのコンプレックスも無限回感じなければなりません。

この意味を知った時、これこそが真のニヒリズムなんだなと感じ、すとんと腑に落ちました。 自分が努力しようがしまいが結果は変わらないし、結果を変えようとあらゆることを尽くしても、すでに決まっているものを変えることはできません。全ての行動は、自分にとっては意味があると思えても、結果という面からは何も変わらない。意味があると思って行う行動すらもすでに決定付けられた行動であって、結果には何も貢献しない。

「どうせ意味がないから」といってやらないという選択自体もやはり過去に既に決定付けられており、その結果もやはり決定付けられている。その決定事項から逃れる方法は存在しない。どれだけ足掻こうが、決定によって踊らされる以外できない。いやー、厨二心をくすぐってくれますね。これこそ本当の虚無です。

少し話は逸れますが、永劫回帰量子力学不確定性原理を上げて否定するという考えもあります。物質の組み合わせを完全に確定させることはできないことは証明されている、という意見ですね。 あんまり語れるほど量子力学についても永劫回帰についても詳しくないので「そういう考えもありだよね」という感想ではあるのですが、ちょっと反論するとすると、不確定性原理はあくまでも「光子で観測するという特徴上厳密な観測・数値化ができない原理」であり、量子の配置を観測によって決定づける限界を表現している式です(と思ってるけど実際違うのかな?)。また、量子力学でも「情報の保存」という根本原則はあるので、不確定性原理と矛盾しているから永劫回帰を否定するというのは暴論じゃないかなぁと思ってます。まぁでもそういう考えもありですよね。真相はどうなのかというのはあんまり興味ないので、ぼくは別に否定しません。

話を戻すと、たぶん、永劫回帰の主張は「絶対に変えられないあらゆる行動と結果を肯定して生きていけるか」という点にあるのかなと思ってます。 なぜなら、同じ人生は過去にも無限回おき、今後も無限回おき続けるんです。肯定できない場合、無限地獄となります。

仮に今この瞬間に自殺をするとします。それで、今という瞬間は終わります。 でも未来でまた全く同じ人生を生き、そしてまたその瞬間になると、全く同じ理由で、同じ方法で自殺をすることになります。同じことは永遠に無限回続きます。 それも含め、肯定できるか。

今自殺をしないとしても、いつかは死が訪れます。今のところ、その事実に抗えた生命は存在しません。 それは10年後かもしれないし、明日かもしれない。わかりません。ただいつかは必ず、しかも突然やってきます。 大往生できるかもしれませんし、なにかを成し遂げようとしている道半ばで不慮の事故で死ぬかもしれません。胸に夢がいっぱいつまった状態で病によって終わりを迎えるしかなくなるかもしれないし、普通に生きていたのにある日突然胸を刺されて死ぬことになるかもしれない。あるいは自分が死ななくても、大切な人が今日死ぬかもしれない。生まれてすぐの赤ん坊が、何も幸せを与えてやれない中、お星さまになるかもしれない。 それも含め、肯定できるか。

そういった全ての結果を受け止めるというのは、簡単にできるものではないでしょう。 努力や抗いが結果として実にならなかった時に、あるいは大きな不幸が訪れた時、「それは最初から決まってることだから」なんて思うこと自体、あるいはナンセンスなのかもしれません。

ただそれでも前向きに生きることは、強さのニヒリズムに繋がるんだろうと思っています。たとえあらゆる結果が決定付けられているとしても、自分の選択さえもすでに決定付けられているとしても、一見すると選択の自由があるように見えるのだから、より良い人生を無限回繰り返すためにも良い結果となるように抗おうとすること、そこに価値がないと思っても、結果は決まっていると感じても、それでも積極的に関与しようとすること。そしてその結果を受け入れること。

あらゆる事象や、行動や結果は実際には無価値だ、とぼくは今でも考えることにしています。無限回繰り返される結果にはたしてどんな価値があるというのでしょう。

永劫回帰もやはり信じることにしています。ただ、「永劫回帰」という考え方にも価値なんてものはないと思ってます。 だって、たとえ結果が決まっているとしても、その結果は実際には目に見えるまでは自分にはわからないのですし、一見すると自分は色々なことを考え、より良い方向へ行くように行動できる自由があるように見えるのだから、そんな決定論にはたしてどこまでの意味や価値があるのでしょうね。それを信じなくても何も変わりはしないでしょう。そんな主張を知る価値すらないとも思ってます。

ただ、これらの主張は妙に気楽で心地良いんです。 最初にも書いた通り、もともとぼくは自分に価値を見いだせずにいます。だけど、これらの主張は「別に全てに価値なんてないんだからそれでいいじゃん」という気楽さを与えてくれます。 努力した結果実らなかったとしても、それを自分のせいだと考える必要もなくなります。かつ、誰か(あるいは何か)のせいにする必要もなくなります。 「まぁ、仕方ないよね」で済ませられる気楽さを与えてくれます。

自分にとって、気楽になるからとりあえず信じることにした、というのがぼくにとってのニヒリズムです。 あくまでぼくにとっての、です。別にその思想を他人に強いるつもりもないし、正しい正しくないとか論じるつもりもないです。正しくないと言われればそういう面もあるのでしょうが、自分にとっては何も価値がないほうが気楽になるから信じてるっていう設定にして生きてます。 (閑話休題ですが、多分思想と宗教の違いは、他人にも同様に求めるかも止めないかの違いだろうなと思ってます。何かを信じるという点では多分どちらもあんまり変わらないですね)

ぼくが好きな小説家の一人に「カート・ヴォネガット」という人がいます。 彼もニヒリストで、彼の書く作品はぼくの考える無価値感にマッチし、読んでるととても快いものがあります。 「タイタンの妖女」なんか、大好きです。あとは「母なる夜」「猫のゆりかご」「スローターハウス5」とか、最高です。

特に「猫のゆりかご」にでてくるボコノン教は、結構ぼくの無価値観にフィットします。 ボコノン教に書かれている、全てを「フォーマ<無害な非真実>」に塗り固めて生きていくというのは、実践すると気楽で楽しいものがあります。 もともと全ては無価値(とぼくは思っている)なのですから、無価値の中に自分の中で見出した価値というものは、全てがフォーマです。そして、たとえ本当は全てが無価値だとしても、自分の中で見出した価値を蔑ろにしたり、否定したりする道理もありません(もともと価値はないものを否定する中にすら価値なんてものはないんですから)。

ようするに、あらゆるものは最初から価値なんてないのだから、自分にとっての価値を見出していっても、何してもいいんですよね。世界に対しても、自分自身に対しても。 どんどんと見出していった自分だけの価値(嘘)を見つけ出していき、真っ白なカンヴァスに自分だけの色を塗っていく。その絵は実際には価値はないとしても、実際に価値などないのですが、自分が見出した価値であるなら、自分にとっては意味がある。そんな考え方が強さのニヒリズムとの付き合い方なのだと、ぼくは勝手に価値を見出し、思うようにしています。