たそがれBranch

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犬を殺した日

高校一年生の夏の終わりに、ぼくは飼っていた犬を殺しました。

ただ一人を除いて、誰もぼくを責める人はいませんでした。
ぼくの親も親戚も、友人や知人も、犬の死に際し「ちょうど寿命がきていたのだ」と、ぼくに言いました。最後を付き添った獣医師さんも看護師さんも、犬の死に対して特に何もぼくを責めるようなことを言うことはありませんでした。

感情を色で表すとすると、後悔という感情は、紫と茶色が混じったような色をしているような気がします。ただどちらとも言い難く、茶色にも紫にも思え、またどちらでもないような、まったくもってはっきりとしない、もやもやとしたまま存在し続けているかのようです。
叱責を受けた時に沸く感情に、やや似ているような気もします。ただ多くの場合、後悔には代謝が発生せず、澱みがマーブル模様を形成して時々写像が映し出されてはその時のことを責める、というようなことがずっと続くような感じがします。

当時シェットランド・シープドッグミニチュア・ダックスフンドを飼っていて、それぞれ「ラッキー」「リリィ」という名前をつけていました。リリィは2~3歳くらい、ラッキーは12歳の誕生日を迎えたばかりのおばあちゃん犬でした。
親がご飯をあげすぎるから、ラッキーはぶくぶくと太ってました。食欲旺盛で、リリィの分までこっそりと食べた上に、ぼくらの食事中にも食べているものを欲しがり、たまねぎなど駄目な食材が入っていないものだけ、親がいつも半分くらいお皿に入れてあげていました。ラッキーは、それもいつもペロッと平らげていました。太りすぎたせいで背中が平らになっていて、そっとペットボトルを立てて乗せておくことができました。ラッキーが寝転がっているときに、何本乗るんだろうと立ててみると、3~4本くらい乗ったあたりで、ラッキーがうっとうしがって動いてしまい、立てたペットボトル達はさらさらとした茶色い毛並を滑り落ちて倒壊しました。

とても頭のいい子でした。遊んでと言ってくるときに、ぼくがゲームに没頭して無視していると、ラッキーは必ず、電源ボタンを踏みました。
そんな感じでいつもゲームの邪魔をしてくるから、ぼくが自分の部屋から追い出して扉を閉めると、ラッキーは「締め出された」、とぼくの親に言いつけに行きました。すると親がやってきてぼくの部屋の扉を開け、締め出したことを怒ってきます。仕方なく部屋に入れてると、またラッキーはゲームの電源を踏むのでした。かまってほしいわけじゃない時にはそんなことはしてきませんでしたが、かまってほしい時は必ず踏んできました。

ジャーキーとメロンシャーベットが大好きで、とくにメロンシャーベットをあげると、両手で器用に容器を抑えながらうれしそうにぺろぺろと舐めてました。いくつかの言葉を理解し、お菓子いる? と聞くとやってきて、静かに、というと、吠えるのをやめました。ちょうだい、という言葉を一生懸命、ふにゃふにゃとしゃべりました。掃除、というと掃除機にかみついてやろうと臨戦モードに入り、散歩、というと聞かないふりをし、ぼくが近づくと逃げました。
太る前は散歩が大好きでしたが、太ってからは、あまり外に出ようとしませんでした。それよりも家の中で遊ぶ方が好きでした。

癌に侵されていて、余命はそう長くはない、と医者には告げられてました。そのための薬を投与するようになってからは、副作用からか、毛の量が増え、さらにぶくぶくと太りました。
親が「痩せさせた方が長生きするか」と聞くと、先生は「あんまり変わらない」と答えました。
「今更そんなことするより、最後までしたいことをさせた方が幸せだと思う」
そう言われたので、ラッキーはその後もしたいようにさせていました。

夏休みが終わる直前だった当日、友達が家に遊びに来て、犬の散歩をさせるということになりました。
普段はそうなるとラッキーは知らないふりをするのですが、その時はそういうそぶりも見せずに素直に従いました。
ぼくはラッキーとリリーを連れ、友達と一緒に公園へ行き、そこでボールを蹴りつつ、犬を遊ばせました。

八方から蝉が甲高く鳴いてました。公園の近くには小川が流れていたのですが、その水も温く澱んでいるようで、蒸し暑さに拍車をかけていました。
遠くの方には入道雲がもくもくと成長をしていましたが、真上には雲らしい雲もなく、直に日差しが照り付け、何もしていなくても汗が噴き出して止まらないような日でした。
ぼくらは自販機で買った冷たいスポーツドリンクを飲み、頻繁に水飲み場へも行ってラッキーとリリーに水をがぶがぶ飲ませながら遊び続けました。リリーは楽しそうにボールを追いかけていましたが、ラッキーは途中でへばって、木の影に寝そべってぼく達のことを見ていました。

言うまでもありませんが、犬は暑がると、舌を口から出して息をします。舌を露出させることで少しでも体温を下げようとします。
唇の先端が少し上にあがるため、その様は、いつも笑っているか、楽しがっているかのようにぼくには見えました。ラッキーも木の影から舌を出し、笑いかけているように思えました。その時実際にはどれだけ暑がっていたのか、ぼくは配慮していませんでした。

3~4時間くらい公園で遊んだあと、ぼくらは家に帰ることにしました。途中で友達と別れ、ぼくはラッキーとリリーを連れていつも歩く道を歩いていました。
しばらく影となる場所がどこにもない一本道を歩いていたとき、焼け付いたアスファルトの道の先には、ゆらゆらと逃げ水のような光の反射が見えました。その水は、歩いても歩いても先の方へと行ってしまい、永遠に手に入ることのない幻でした。
途中、ぼくは自販機でスポーツドリンクを買いました。その時リリーが「だっこ」と言ってきたので、ぼくはリリーを抱え、自転車のかごに入れました。
ラッキーをかごに入れることはできませんでした。中型犬である上に太りすぎていて、持ち上げることもままなりません。だからラッキーは、そのままぼくに引っ張られ、焼けたアスファルトの上を直に歩き続けました。

自宅まであと100メートルくらいというあたりで、ラッキーはしゃがみ込みました。

ぼくは歩き疲れたのかなと思い、そのまま立ち止まりラッキーが立ち上がるまで待つことにしました。ラッキーは舌を出し、相変わらず笑っているようにぼくには見えました。
環状線の道路沿いで、車道にはひっきりなしに車やトラックが走っていました。トラックが走り去ると、ただでさえ熱い空気がかき回され、排気ガスと一緒に熱風となってこちらに吹き込んできます。ぼくはスポーツドリンクを一口飲みながら車の流れを眺めていました。
ラッキーは歩道の真ん中で横になりました。そして明らかに苦しがっていると、その時になってようやくわかりました。

「どうしたん?」

ぼくはしゃがんでラッキーに話しかけました。
ラッキーは何も反応せず、舌を出せるだけ出して荒く息をしていました。舌が紫がかっているのがわかりました。
ぼくは起こそうとラッキーの体の下に手を入れようとしたとき、やっとアスファルトがどれほど焼けているのかがわかりました。

「ラッキー、ごめん」

熱中症になっているとようやく気付き、とにかく病院につれていかないとと、持ち上げようとしました。
でも、ただでさえ重いうえにラッキーは体の力が抜けきっていて、簡単に持ち上げることができませんでした。とにかくぼくはラッキーに持っていたスポーツドリンクをかけて少しでも熱を逃そうと応急処置をし、また持ち上げようとしましたが、やはり持ち上げられずにいました。

「どうしたの」

近くを歩いていた女性が話しかけてきました。
ぼくは事情を説明し、病院の人呼んでくるといってそれまで見ていてもらうことにしました。そして一番近い動物病院の場所を思い出しながら自転車で全力疾走し、病院の看護師さんに事情を話しました。
看護師さんは、車を出してくれました。そしてラッキーが倒れてるところまで行き、ぼくは女性にお礼を言い、看護師さんと二人がかりでラッキーを持ち上げて車の後部座席に乗せ、そのまま病院にUターンしました。スポーツドリンクをかけられたラッキーは、体中がべとべとになっていました。

病院は、ぼくがお金を持ってことを知っていたにも関わらず後で払いに来てくれたらいいと言い、緊急手当てをしてくれました。
ぼくはそれでほっとし、もう大丈夫だなと思っていました。大丈夫と思ったら気が抜け、ぼくは病院においてあった動物の雑誌を読みながら回復を待ちました。

30分ほどして、獣医師さんが出てきました。

「残念ですが…」

獣医師さんがそう言った時、ぼくはうまく言葉を把握できずにいました。
病院にきたのだからもう大丈夫だと思い込んでいたのです。

ラッキーは診察台の上に横になっていました。まるで置物のように動きません。ただ紫色になった舌がだらんと口から垂れ、それも動かず、ただ垂れていました。
目が開いていたか、閉じていたかは、思い出せません。

看護師さんは、そのままラッキーをつれてぼくの家の玄関まで運んでくれました。
玄関からは、ぼくは抱え込みながらひっぱるようにして、リビングまでラッキーを運びました。

ラッキーが死んだとぼくが連絡をし、親が慌てて帰ってきました。
一言ふたこと、親と話をしました。ただ、親がぼくを責めることはありませんでした。

親は祖母に連絡をしました。そして、急遽車で祖母の家に向かうことになりました。
祖母の家の近くには、過去飼っていて亡くなった犬猫たちのお墓がありました。そこにラッキーを弔うためでした。
自宅から祖母の家まで、片道3時間かかります。親は高速を乗りながら、ずっとラッキーとの思い出に関して話続け、途中から泣きはじめました。
ぼくは、車の中に流れている音楽を聴くともなく聴いていました。車には宇多田ヒカルの曲と、槇原敬之の曲が流れ続けていました。

祖母の家についたのは深夜1時くらいのことでした。
そこでもまた、一言ふたこと話がありましたが、どんなことを話したのかは忘れてしまいました。
既にお墓の近くに穴が掘られていて、そこにラッキーを横にし、ビーフジャーキーやらアイスやらと一緒に埋めました。その日は祖母の家で一泊し、朝、お墓にお供え物をして、そのまま家に帰りました。

「なぁ、やっぱり俺らのせいで死んじゃったんやろか…」

その時一緒に遊んだ友達にラッキーの死を伝えたところ、友達はしばらく黙り込んだあと、しょんぼりとした声でそう聞いてきました。

「きっと、寿命やってん」

ぼくはそう答えました。

「こればっかりは仕方ないことや」

電話を切ってから少したってから、ふいにやり場のない怒りがこみあげてきました。
そう答えた自分の発言の中に、自分の浅はかさと偽善と、なんとも言いようのない独りよがりの自己中心さとが入り混じった自分の負の部分が凝縮して現れたような心地がし、それは以前にも時々感じることがあったものの見ないふりをしていた姑息な面を垣間見たような気がしました。
周りがそう言ってくれていることを悪用して自分を救済しようとしている狡猾さが嫌になり、しばらくの間、ぼくは最低な人間なのだと考えるようになりました。

今も、当時ほどは緩和されてはきたのですが、それは続いています。
こんな記事を書いていること自体、ぼくは、ぼくの中のある種の姑息さを感じとってしまいます。そしてそれはいつまでも循環します。「姑息さを感じる」と書く姑息さ。
一体ぼくは書くことで何を求めているのだろう。
そんなことを考えていると、またその中にある自分の姑息さを感じ取ってしまう。

「たかが犬の死じゃないか」

そんな言葉さえ、書いている間、自分の中に沸いては別の自分が説き伏せる。いいや、ぼくにとっては、たかが、じゃない。
自分の中から相反する言葉が同時に出てくるのです。矛盾。 そして書いている文章に垣間見える、ゆがんだナルシズムもまた、自分の狡猾さや、姑息さを感じさせる。

ぼくは書くことで一体何を求めているのか、考えが循環してしまって、よくわかりません。
ぼくは自分を今でも許してはいない。一方で、ぼくはそんな許さない自分を許してる。しかしその姑息さに対して腹を立てることもあり、一方で、それも含め自分なのだとも受け入れてる。
この感情をどう言葉で表せばいいのかよくわからないのですが、確かなことは、ぼくの行動で飼っていた犬を殺してしまったという事実は変わらないし、そこから何かの教訓を得ようとすることも、仕方がないと考えようとすることも、こうできなかったのかと自分を責めることさえも自分の中の偽善や姑息さを感じてしまう、そしてその感じてしまうことさえも姑息であると考えてしまい、そんな風にどんどんと考えが循環していくということです。そして循環すればするほど、その過程において「死」というそもそもの事実から無意識的にずらしていこうとしている理性の別の姑息さを感じとります。

客観的な答えならもう出ています。 明らかにぼくのせいで犬は死にました。

なのに「このことを考えていると考えが循環するんです」とか言ってるようじゃ、その事実をありのままに受け入れられるようになるのにはまだ時間を要するのでしょう。 事実をありのままに受け入れるというのは、本当に難しいです。