たそがれBranch

個人的なブログを投稿していきます

自宅でパソコンと向き合いながら仕事をしている時にふと集中力が途切れ、窓の外から、ちりちりと蝉の大きな鳴き声がしだしたことに気づきました。

あるいは、逆かもしれません。蝉が近くで鳴き始めたものだから、集中力が途切れたのかもしれません。ただそれまで遠くの方で鳴いている声は聞こえていたものの、窓の外すぐ近く、開けたら入ってきそうなくらい近くで鳴いてなどいなかったはずでした。

 

いつから蝉が最初の一鳴きを始めるものなのか、ぼくはよく知りません。土からはいでてきて、脱皮をし、羽の生えたいわゆる成虫の形になったらすぐに鳴き始めるのか、はたまた脱皮してからしばらく休憩を入れた後、さあ鳴こう、とでも気合を入れて鳴き始めるのか。ぼくはそれまで考えたこともなかったし、考えている間もあんまり興味があったわけではないのですが、集中力が途切れたついでに、声を聞きながらどっちなんだろうなと特に答えも求めているわけでもなく考えにふけりました。

 

窓の外には、それといって木らしい木は生えていません。小さい庭を隔てた向かいにはそれほど大きくはない畑がひろがり、キャベツやら、ひまわりやらが植えられています。そして小さい庭の垣根の端に、ぼくがこの家に引っ越してくる前から植えられていた背の低い金木犀が一本だけ立っています。

まだ花は咲いておらず、青々とした葉だけをつけ、その隣には物干し竿が置かれ、2〜3日分の洗濯物が気だるそうに干されていました。

 

蝉はあの木で羽化したのだろうか、とぼくは立ち上がり、窓のところまで行ってカーテンから顔をのぞかせて窓越しに金木犀を眺めてみましたが、どこに蝉がいるかは見当もつきませんでした。地面は少し大きめの砂利で敷き詰められていて、それといって蝉が出てきたと思われる穴も見当たりません。ただちりちりとした大きな鳴き声の発生源は、どうもあの金木犀からで間違いはなさそうでした。結構うるささを感じるほど鳴くものですから、外に出て金木犀を揺さぶって追い出してやろうかと考えたりもしましたが、それもなんだか大人げないような気がして、ぼくはカーテンを閉じ、Spotifyで音楽を流すことにしました。Google Homeから米津玄師やOfficial髭男dismの曲が流れてきましたが、蝉はそれらに負けることなく鳴いていました。猫と目が合ったので、ぼくは頭を撫でました。

 

どこかで、日本人は蝉の声を聞いても「静けさ」を感じる民族だというのを読んだことがあるのをふと思い出しました。そこでは、松尾芭蕉の以下の俳句が引用されていました。

閑さや岩にしみ入る蝉の声

言われてみれば、真夏の蝉の声を「うるさい」と感じることってこれまであんまりなかったな、と思いました。ぼくの祖母の実家は高知の限界集落といえるほどの山奥にあり、縁側からは仁淀川を挟むようにして、3つの山が見え、そのあちこちで蝉が大合唱をしていたものですが、小学校の夏休みの頃によく帰っていた時の思い出に感じる印象は、その川から感じる静けさそのものでした。蝉の声を聞き、それに意識を奪われている時も、そこに流れている時間そのものの静けさを感じていたものでした。

 

しかし、今はうるさい。

閑さにしみ入るための岩が近くに存在しないからでしょうか。あるいは、いくら蝉に静かさを感じるといえども距離的な限界点というものがあり、間近で鳴かれると話はまた違ってくるのでしょうか。

ぼくはまがりなりにもプログラマーですから、そんな時、職業病としてどういう条件分岐によってその差が生じるのか、あるいはどのような状態が管理され、作用しているのか、といったことをふと考えてしまいます。ただ考えたところでやるべきことは変わらないな、という結論になったため、考えるのをやめ、まぁ蝉にとっては一生懸命鳴いているのだろうからこちらが慣れることにしよう、という結論になりました。一週間か二週間我慢すれば良いだけの話ですし、環境に慣れるというのは、ぼくはそこそこ得意な方でした。

 

蝉は2日ほど、近くで鳴き続け、その後声は遠くからしか聞こえなくなりました。

ぼくには蝉の個体を識別する能力が残念ながら欠けていますので、その蝉が遠くで鳴くことにしたのか、はたまた死んでしまったのかはわかりません。ただ遠くでは相変わらず鳴き声は聞こえ続けているのに、近くで聞こえなくなると、やはり静けさを感じるようになりました。

 

蝉を儚い命の象徴のようにとらえることが、たびたびあります。実際にそうなのかもしれません。何年も地中の中で過ごし、やっとの思いで出てきても、何週間も生きられない。その事実を知っているぼくは、自分の人生と比較するとあまりにも儚そうだと感じます。

最近、ゾンビゼミのニュースがTwitterでトレンド入りしていました。

www.cnn.co.jp

なにこれこわい。

こういうのを見ると、まぁ蝉も大変だなぁとついつい感じてしまいます。

ただ、大変そうだと感じるのは、ぼくがそういった事実を知っているからなんじゃないだろうか、と、ぼくは近くの不在となった鳴き声を意識しながら考えました。

蝉たちは、羽化した後残り僅かな命であることを知っているのだろうか。
また、ゾンビ化してしまうような恐ろしい病原菌がいることを知っているだろうか。
そして、自分たちよりも長生きする存在(たとえば人間)がいることを知っているだろうか。

儚さだとか、恐ろしさだとか、そういったどこか感情が切なくなる類のものは、その存在を知っている者にのみ沸き起こる感情ではないか。もしもぼくが蝉が羽化して7日くらいしか生きられないことを知らなければ、そんなこと考えもしないでしょうし、個体を識別できない以上、大勢の蝉が鳴いている中で一個体の死を意識することもないでしょう。蝉達は自分が儚い存在であることを認識しているのか、もししていないのであれば、彼らは別に儚いと考えてもいないでしょう。

時間や状態というものは相対的なもので、7日だろうが、80年だろうが、あるいは健康だろうが病気だろうが、比べる対象がない場合、おそらく大した違いなんてないのでしょう。

 

それに、たとえば人間よりも遥かに長生きするーー1000年くらい生きるエルフみたいな種族が存在いて、ぼくらにとっての健康は彼らにとって不健康そのものに見えるというような、病気にもならない強い種族がいたとして、ぼくは自分の人生の儚さを感じるのかどうかというと、なんというか、現実味がなくてあんまり感じないのではないかという気がします。ただ、エルフ達は、人間の短命さに儚さを感じるかもしれません。

きっと、儚さを感じるのは、その死を看取る側なのでしょう。
何度もその種族の死を繰り返し目の当たりにすることで、命の短さを感じたり、道半ばの別れを意識したりするのかもしれない。

 

だとすると、蝉自身は、たとえ自分が残りわずかな命だとわかっていたとしても、その生涯に儚さなんて感じていないのかもしれません。ぼくは蝉ではないので、本当のところどうなのかはわかりませんが。

 

このブログを書いているとき、猫がハウスに寝転がりながらお腹を見せてにゃぁと鳴いたので、ぼくは猫の頭をぽんぽんと叩きました。

もう、飼っている猫も11歳になります。猫は相変わらず子供の頃と変わらない顔つきをしています。