たそがれBranch

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猫の手を借りる日

うちには、でっかい猫がいます。

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名前は「みぃ」と言います。

最初拾った時にみぃみぃ鳴いていたのでそう名付けたのですが、その時の気分によって「みぃみぃ」と呼んだり、「みみみ」と呼んだり、「みぃこ」と呼んだり、「みぃごん」と呼んだり「ごんすけ」と呼んだりしていて、どう呼んでもちょこっとだけ反応するので、多分本人は自分の名前がみぃであることとかあんまり気にしていないようです。

機嫌がいいと、呼んだらにゃぁと返してきますが、大抵の場合は振り向きもせず、しっぽだけを気だるそうに一振り動かして反応します。

猫からすると特大サイズのソファをおいてもこのようにはみ出るくらい大きく育っちゃったのですが、最初から大きいわけではありませんでした。

 

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最初は、こんなスマートな子でした。それが、こうなりました。

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一体何故こうなってしまったのか、とんと見当がつきません。

強いて言えば、最近1日に5食くらい食べたがるからかもしれませんが、それでこんな顔つきや、顔の大きさまで変わるものなのでしょうか。

 

みぃは、3.11が発生する1年くらい前に、最寄り駅のロータリーで拾いました。

仕事から帰って最寄りの駅についた時に、ロータリーの真ん中にある茂みに数人の人が集まっていて、みぃみぃとすごい鳴き声が響いていました。人々は、こんな場所にいては危ないからと、その鳴き声の主を捕まえようとしていました。ただ鳴き声のする所にそろそろと近づくと、低木の中をするすると走ってまた別の場所へ逃げ、みぃみぃ泣くのを繰り返していました。

数人がかりの格闘の末、やっと誰かが小さい猫を捕まえて拾い上げました。

猫は、捕まえられると「シャーッ」と、周りに怯えたような威嚇をしました。ただ、あまりにも小さいため、どれだけシャーっと言われても、怖くもなんともありませんでした。

まだ歯すら生え揃っていない、本当に生まれてすぐの猫だとわかりました。

周りの人達は、捕まえてはみたものの家で飼うことができないと戸惑い出しました。ぼくはもともと犬派で、その時既に二匹のミニチュアダックスを飼っていたのですが、ぼくも戸惑いながら、仕方なく貰い受けました。

 

飼い始めてしばらく、みぃは近づくと毎回「シャーッ」と威嚇をしていたのですが、住み始めてしばらくすると言わなくなりました。ただ、今でも掃除機を近づけると「シャーッ」と言います。掃除をするからとみぃを別の部屋に連れて行っても、掃除機をかけようと掃除機を持ってきたタイミングで部屋に戻ってきてしまい、こちらに落ち度はないはずなのに「シャーッ」と言い、逃げていきます。

 

みぃは「シャーッ」と言う代わりに、他の色んな鳴き方をするようになりました。

「にゃぁ」と言うこともあれば、「にゃぁにゃぁ」と言うこともあり、また、「にゃにゃっ」と言ったり、「にゃーお」と言ったり、「なーん」と言ったり、「なおーん」と言ったりします。

 

何処かで聞いた話なのですが、もともと猫は、基本猫同士では鳴かないそうです。鳴くのは、最初のように母親を探したりする時や喧嘩する時など、非常事態に限られるのだとか。

でも人間は猫に比べるととても耳が悪いので、猫様は人間どもとコミュニケーションを取ってやるために仕方なく鳴くのだ、と専門家っぽい人が言っていました。

また、みぃは動作でも意思表示をします。たとえば、お皿の前に座ったり、猫草の前に座ったり。冷蔵庫の前に座って「にゃぁ」と言うと、いつもおやつで挙げてるシラスがほしいんだ、とわかりますし、ベッドに上って「にゃぁ」と言ってくるときには、一緒に寝よって言ってるんだとこちらもわかります。

 

そんな風に動作も交えて意思表示をしてくるのを観察していると、おそらく、言葉の成り立ちを見ているようで、とても興味深いものがあります。

ある環境に立たされた時、自分の意思を伝えるというのが、生きていく上で必須の欲求となります。あるいは、伝えられた方が楽になります。

ただ、みぃは誰かに教わったわけでもないのにそれをやり始めたというのは、伝えたいという感情はア・プリオリな部分からくるものなのでしょう。自他の認識という同じくア・プリオリな認識から自然発生的に帰着する行動なのかもしれません。

そして、それはホモ・サピエンスがまだ言葉を持たない毛のない猿として過酷な自然界からいじめられていた時代に、鳴き方を変えて意思伝達を行うという試みを繰り返し繰り返し行われながら、複雑な言葉が成り立っていったのでしょう。

 

そんなことを考えると、まだまだ遠い未来かもしれませんが、猫もより多彩な鳴き方を獲得し、人間もその猫語をより詳細に把握するようになって複雑なコミュニケーションが成り立つようになり、猫の手を借りられる日が来るのかもしれないなぁ、と言う気がしてきます。

多分猫様が今よりもより人間どもの手を借りまくるようになるだけのような気もしなくもないですが。

 

運の要素

コロナが本格的に流行り始めた今年の4月にぼくは独立をしてフリーランスになりました。本当は、独立して最初の仕事は先方の会社に常駐して行う予定ではあったのですが、事情が事情ですから、最初からフルリモートで、自宅から作業をさせてもらえることになりました。

今はその時とは全く別の仕事をしているのですが、そのままの流れで今もフルリモートで作業をしています。今年のはじめに案件を探してた時には、あまりフルリモートOKというのはなかったように思うのですが、コロナの影響でしょうか、それでも良いという所は増えているような気がします。といってもぼくの周りだけの話なので、実際のところどうなのかはよくわかりません。

 

前にも会社を辞めた時の話は投稿したのですが、独立しようと思った直後は、新型コロナがここまで深刻になるとは思っていませんでした。3月を過ぎたあたりから本格的に影響が出始めたと記憶しているのですが、もうその時には会社にも辞めることを伝えてしまっていて、後戻りすることもできず、まぁなんとかなるでしょ、という思いで、えいやっと辞めたのを憶えてます。

まだ独立して5ヶ月しか経っていないので、今後どのようになるのかはわかりませんが、今の所はうまく行っています。会社員の頃よりかは若干収入が不安定となりそうな予感はしていますが、それでも今年食いっぱぐれるということはなさそうです。

今の収入源は、請負や委任が100%を占めているのですが、徐々に自分のサービスを展開していって、そちらの比率を増やしていきたいという野望は持っていますが、ちょっと今はコロナ疲れ気味で停滞しちゃってます。そろそろ動いていきたい。

 

松下幸之助は、成功するかどうかは90%が運で、残りの10%が努力だ、というような名言を遺しました。きっとそんな感じなのでしょう。何かを成し遂げるには、努力はもちろんですが、運もとても大事なのでしょう。

ただ、経営の神様の言葉に口をはさめるほどぼくは何もしていないのですが(というか、ぼくはまだ何もしていませんが…)、運というのにも3種類あるよな、という気がしています。

「運」を分解すると、以下のような要素で構成されていると考えています。

  • めぐり合わせ
  • 情勢
  • タイミング

深く考察はしてないので、もうちょっと要素はあるかもしれません。

めぐり合わせというのは、それまで築き上げてきた人との繋がりだとか、ある対象との関わりだとか、そんな「今現在」を構築している過去の要素です。出会いとか運命といった方が良いかもしれませんね。

それは、遡り続けると、生まれた時にまで達するのだと思っています。あるいは、それよりも更に前、ぼくの親や、祖父母、ご先祖さまのめぐり合わせも、少なからず影響しているかもしれません。

大半のめぐり合わせは、コントロールなど出来ず、それらを考えると身も蓋もないようなものになってしまいます。

ドフトエフスキーは、「貧しき人々」という小説の中でこう書いています。

ある人は母の胎内にいるときから既に運命の鳥に幸運を告げられているのに、ある人は養護施設の中から人生の荒波に飛び込まなければならないのは、いったいどういうことなのでしょうね?

また、ジョン・F・ケネディは以下のように言いました。

人間は生まれつき不公平に作られている

実際にそれらの言葉は、様々な人の不幸な過去などを聞いたりしていると、真理なのだろうという気がします。

また、めぐり合わせは未来にも関わるものになります。その時は失敗だったとしても、その後のめぐり合わせによって花開く、というケースは多々見受けられます。

 

めぐり合わせはまた「受動的」「能動的」な2つに分解することができます。受動的とは、上に挙げた変えようのない、自分の意思ではどうすることもできないめぐり合わせです。一方、能動的なめぐり合わせは、自分の行動の結果発生するもので、多少は変えられる余地はあるように思います。

 

情勢とタイミングは、似たようなものですが、中長期的なものか、瞬発的なものかという違いがあります。情勢にうまく乗ることができれば成功はしやすいでしょうし、ただ、タイミングが悪ければ成功する確率は下がるのでしょう。

 

「運」というひと括りで考えると、それはコントロールしようがないもののように思えますが、分けて考えると、タイミング以外はある程度の対策ができそうです。今どのような情勢で、どういう需要があるのかを分析してみたり、今のめぐり合わせを大切にし、そこから何ができるかを考えたり、あるいは、ちょっとビジネス的すぎて嫌な言い方になりますが、やりたいことを実現できる人、人材を能動的に探したり。

また、自分がやりたいことを発信する、というのも、めぐり合わせ運を高める手段としては有効なのでしょう。色んな人に「自分はこんなことをしたい」と伝えることで、それを実現できる手段を教えてもらえるかもしれませんし、実現できる人とめぐりあえる可能性が高まるかもしれない。

 

今のところ、ぼくは「受動的なめぐり合わせ」によって生かされている、と常々考えるようになっています。要は、今までは運がよかった。

ぼくの母は、ちょうど昨日66歳となったのですが、女手一つでぼくを育ててくれました。気が強くてとても変わった親なのですが、きっと大変だっただろうに、ぼくがやりたいことをそのままやらせてくれた親です。

小学生の頃、母はぼくにPCを買ってくれました。ぼくが通ってた小学校にPCがあって、ぼくが興味を持ったことを知ってのことです。

おそらくそれがなければぼくはプログラミングなんてやらなかったでしょうし、今、こうして独立してフリーランスでもなんとかやっていけるというようなこともなかったかと思います。本当に全く別の人生を歩んでいたのでしょう。

そのPCとのめぐり合わせは、今のぼくを作っています。

 

また直近でも、ぼくは沢山のめぐり合わせによって生かされています。今の取引先の方ともそうですし、前の会社の経験もそうです。その頃に培った経験がなければ、やはりぼくは独立してやっていくなんてできなかったに違いありません。

いい人たちばかりだったし、その中でたくさんの経験をさせてもらえました。会社を選んだ、というのは能動的なめぐり合わせかもしれませんが、その内部の実態がどうなのか、また具体的にどんな仕事を割り当てられるかというのは、入ってみなければわかりません。様々な人と出会い、様々なプロジェクトをこなすなかで、クラウドの技術やアプリ開発の技術なども学び、その経験は今に生きています。

 

Twitterなどを介して色んなアプリ開発者の人たちと巡り会えたのも、ぼくにとっては大きな転換点でした。様々な人がいて、いろんな考えを持ってやっているんだな、というのを気づかしてもらえ、それらは良い刺激になっています。これらのめぐり合わせもまた大切にしていきたいです。

 

ただ、今までは受動的なめぐり合わせという、特に運が強く働く要素で生き残ってこれましたが、今後もそれによって生き残り続けられる保証はどこにもありません。それに、生き残る、ではなく、何かを実現する、というようにシフトしていくには、ぼくも能動的に動いてもいかなければならないのでしょう。

とはいえ、今というめぐり合わせに感謝しつつ、ゆっくり進んでいこうと思います。急ぐと疲れちゃいますので。

自宅でパソコンと向き合いながら仕事をしている時にふと集中力が途切れ、窓の外から、ちりちりと蝉の大きな鳴き声がしだしたことに気づきました。

あるいは、逆かもしれません。蝉が近くで鳴き始めたものだから、集中力が途切れたのかもしれません。ただそれまで遠くの方で鳴いている声は聞こえていたものの、窓の外すぐ近く、開けたら入ってきそうなくらい近くで鳴いてなどいなかったはずでした。

 

いつから蝉が最初の一鳴きを始めるものなのか、ぼくはよく知りません。土からはいでてきて、脱皮をし、羽の生えたいわゆる成虫の形になったらすぐに鳴き始めるのか、はたまた脱皮してからしばらく休憩を入れた後、さあ鳴こう、とでも気合を入れて鳴き始めるのか。ぼくはそれまで考えたこともなかったし、考えている間もあんまり興味があったわけではないのですが、集中力が途切れたついでに、声を聞きながらどっちなんだろうなと特に答えも求めているわけでもなく考えにふけりました。

 

窓の外には、それといって木らしい木は生えていません。小さい庭を隔てた向かいにはそれほど大きくはない畑がひろがり、キャベツやら、ひまわりやらが植えられています。そして小さい庭の垣根の端に、ぼくがこの家に引っ越してくる前から植えられていた背の低い金木犀が一本だけ立っています。

まだ花は咲いておらず、青々とした葉だけをつけ、その隣には物干し竿が置かれ、2〜3日分の洗濯物が気だるそうに干されていました。

 

蝉はあの木で羽化したのだろうか、とぼくは立ち上がり、窓のところまで行ってカーテンから顔をのぞかせて窓越しに金木犀を眺めてみましたが、どこに蝉がいるかは見当もつきませんでした。地面は少し大きめの砂利で敷き詰められていて、それといって蝉が出てきたと思われる穴も見当たりません。ただちりちりとした大きな鳴き声の発生源は、どうもあの金木犀からで間違いはなさそうでした。結構うるささを感じるほど鳴くものですから、外に出て金木犀を揺さぶって追い出してやろうかと考えたりもしましたが、それもなんだか大人げないような気がして、ぼくはカーテンを閉じ、Spotifyで音楽を流すことにしました。Google Homeから米津玄師やOfficial髭男dismの曲が流れてきましたが、蝉はそれらに負けることなく鳴いていました。猫と目が合ったので、ぼくは頭を撫でました。

 

どこかで、日本人は蝉の声を聞いても「静けさ」を感じる民族だというのを読んだことがあるのをふと思い出しました。そこでは、松尾芭蕉の以下の俳句が引用されていました。

閑さや岩にしみ入る蝉の声

言われてみれば、真夏の蝉の声を「うるさい」と感じることってこれまであんまりなかったな、と思いました。ぼくの祖母の実家は高知の限界集落といえるほどの山奥にあり、縁側からは仁淀川を挟むようにして、3つの山が見え、そのあちこちで蝉が大合唱をしていたものですが、小学校の夏休みの頃によく帰っていた時の思い出に感じる印象は、その川から感じる静けさそのものでした。蝉の声を聞き、それに意識を奪われている時も、そこに流れている時間そのものの静けさを感じていたものでした。

 

しかし、今はうるさい。

閑さにしみ入るための岩が近くに存在しないからでしょうか。あるいは、いくら蝉に静かさを感じるといえども距離的な限界点というものがあり、間近で鳴かれると話はまた違ってくるのでしょうか。

ぼくはまがりなりにもプログラマーですから、そんな時、職業病としてどういう条件分岐によってその差が生じるのか、あるいはどのような状態が管理され、作用しているのか、といったことをふと考えてしまいます。ただ考えたところでやるべきことは変わらないな、という結論になったため、考えるのをやめ、まぁ蝉にとっては一生懸命鳴いているのだろうからこちらが慣れることにしよう、という結論になりました。一週間か二週間我慢すれば良いだけの話ですし、環境に慣れるというのは、ぼくはそこそこ得意な方でした。

 

蝉は2日ほど、近くで鳴き続け、その後声は遠くからしか聞こえなくなりました。

ぼくには蝉の個体を識別する能力が残念ながら欠けていますので、その蝉が遠くで鳴くことにしたのか、はたまた死んでしまったのかはわかりません。ただ遠くでは相変わらず鳴き声は聞こえ続けているのに、近くで聞こえなくなると、やはり静けさを感じるようになりました。

 

蝉を儚い命の象徴のようにとらえることが、たびたびあります。実際にそうなのかもしれません。何年も地中の中で過ごし、やっとの思いで出てきても、何週間も生きられない。その事実を知っているぼくは、自分の人生と比較するとあまりにも儚そうだと感じます。

最近、ゾンビゼミのニュースがTwitterでトレンド入りしていました。

www.cnn.co.jp

なにこれこわい。

こういうのを見ると、まぁ蝉も大変だなぁとついつい感じてしまいます。

ただ、大変そうだと感じるのは、ぼくがそういった事実を知っているからなんじゃないだろうか、と、ぼくは近くの不在となった鳴き声を意識しながら考えました。

蝉たちは、羽化した後残り僅かな命であることを知っているのだろうか。
また、ゾンビ化してしまうような恐ろしい病原菌がいることを知っているだろうか。
そして、自分たちよりも長生きする存在(たとえば人間)がいることを知っているだろうか。

儚さだとか、恐ろしさだとか、そういったどこか感情が切なくなる類のものは、その存在を知っている者にのみ沸き起こる感情ではないか。もしもぼくが蝉が羽化して7日くらいしか生きられないことを知らなければ、そんなこと考えもしないでしょうし、個体を識別できない以上、大勢の蝉が鳴いている中で一個体の死を意識することもないでしょう。蝉達は自分が儚い存在であることを認識しているのか、もししていないのであれば、彼らは別に儚いと考えてもいないでしょう。

時間や状態というものは相対的なもので、7日だろうが、80年だろうが、あるいは健康だろうが病気だろうが、比べる対象がない場合、おそらく大した違いなんてないのでしょう。

 

それに、たとえば人間よりも遥かに長生きするーー1000年くらい生きるエルフみたいな種族が存在いて、ぼくらにとっての健康は彼らにとって不健康そのものに見えるというような、病気にもならない強い種族がいたとして、ぼくは自分の人生の儚さを感じるのかどうかというと、なんというか、現実味がなくてあんまり感じないのではないかという気がします。ただ、エルフ達は、人間の短命さに儚さを感じるかもしれません。

きっと、儚さを感じるのは、その死を看取る側なのでしょう。
何度もその種族の死を繰り返し目の当たりにすることで、命の短さを感じたり、道半ばの別れを意識したりするのかもしれない。

 

だとすると、蝉自身は、たとえ自分が残りわずかな命だとわかっていたとしても、その生涯に儚さなんて感じていないのかもしれません。ぼくは蝉ではないので、本当のところどうなのかはわかりませんが。

 

このブログを書いているとき、猫がハウスに寝転がりながらお腹を見せてにゃぁと鳴いたので、ぼくは猫の頭をぽんぽんと叩きました。

もう、飼っている猫も11歳になります。猫は相変わらず子供の頃と変わらない顔つきをしています。

犬を殺した日

高校一年生の夏の終わりに、ぼくは飼っていた犬を殺しました。

ただ一人を除いて、誰もぼくを責める人はいませんでした。
ぼくの親も親戚も、友人や知人も、犬の死に際し「ちょうど寿命がきていたのだ」と、ぼくに言いました。最後を付き添った獣医師さんも看護師さんも、犬の死に対して特に何もぼくを責めるようなことを言うことはありませんでした。

感情を色で表すとすると、後悔という感情は、紫と茶色が混じったような色をしているような気がします。ただどちらとも言い難く、茶色にも紫にも思え、またどちらでもないような、まったくもってはっきりとしない、もやもやとしたまま存在し続けているかのようです。
叱責を受けた時に沸く感情に、やや似ているような気もします。ただ多くの場合、後悔には代謝が発生せず、澱みがマーブル模様を形成して時々写像が映し出されてはその時のことを責める、というようなことがずっと続くような感じがします。

当時シェットランド・シープドッグミニチュア・ダックスフンドを飼っていて、それぞれ「ラッキー」「リリィ」という名前をつけていました。リリィは2~3歳くらい、ラッキーは12歳の誕生日を迎えたばかりのおばあちゃん犬でした。
親がご飯をあげすぎるから、ラッキーはぶくぶくと太ってました。食欲旺盛で、リリィの分までこっそりと食べた上に、ぼくらの食事中にも食べているものを欲しがり、たまねぎなど駄目な食材が入っていないものだけ、親がいつも半分くらいお皿に入れてあげていました。ラッキーは、それもいつもペロッと平らげていました。太りすぎたせいで背中が平らになっていて、そっとペットボトルを立てて乗せておくことができました。ラッキーが寝転がっているときに、何本乗るんだろうと立ててみると、3~4本くらい乗ったあたりで、ラッキーがうっとうしがって動いてしまい、立てたペットボトル達はさらさらとした茶色い毛並を滑り落ちて倒壊しました。

とても頭のいい子でした。遊んでと言ってくるときに、ぼくがゲームに没頭して無視していると、ラッキーは必ず、電源ボタンを踏みました。
そんな感じでいつもゲームの邪魔をしてくるから、ぼくが自分の部屋から追い出して扉を閉めると、ラッキーは「締め出された」、とぼくの親に言いつけに行きました。すると親がやってきてぼくの部屋の扉を開け、締め出したことを怒ってきます。仕方なく部屋に入れてると、またラッキーはゲームの電源を踏むのでした。かまってほしいわけじゃない時にはそんなことはしてきませんでしたが、かまってほしい時は必ず踏んできました。

ジャーキーとメロンシャーベットが大好きで、とくにメロンシャーベットをあげると、両手で器用に容器を抑えながらうれしそうにぺろぺろと舐めてました。いくつかの言葉を理解し、お菓子いる? と聞くとやってきて、静かに、というと、吠えるのをやめました。ちょうだい、という言葉を一生懸命、ふにゃふにゃとしゃべりました。掃除、というと掃除機にかみついてやろうと臨戦モードに入り、散歩、というと聞かないふりをし、ぼくが近づくと逃げました。
太る前は散歩が大好きでしたが、太ってからは、あまり外に出ようとしませんでした。それよりも家の中で遊ぶ方が好きでした。

癌に侵されていて、余命はそう長くはない、と医者には告げられてました。そのための薬を投与するようになってからは、副作用からか、毛の量が増え、さらにぶくぶくと太りました。
親が「痩せさせた方が長生きするか」と聞くと、先生は「あんまり変わらない」と答えました。
「今更そんなことするより、最後までしたいことをさせた方が幸せだと思う」
そう言われたので、ラッキーはその後もしたいようにさせていました。

夏休みが終わる直前だった当日、友達が家に遊びに来て、犬の散歩をさせるということになりました。
普段はそうなるとラッキーは知らないふりをするのですが、その時はそういうそぶりも見せずに素直に従いました。
ぼくはラッキーとリリーを連れ、友達と一緒に公園へ行き、そこでボールを蹴りつつ、犬を遊ばせました。

八方から蝉が甲高く鳴いてました。公園の近くには小川が流れていたのですが、その水も温く澱んでいるようで、蒸し暑さに拍車をかけていました。
遠くの方には入道雲がもくもくと成長をしていましたが、真上には雲らしい雲もなく、直に日差しが照り付け、何もしていなくても汗が噴き出して止まらないような日でした。
ぼくらは自販機で買った冷たいスポーツドリンクを飲み、頻繁に水飲み場へも行ってラッキーとリリーに水をがぶがぶ飲ませながら遊び続けました。リリーは楽しそうにボールを追いかけていましたが、ラッキーは途中でへばって、木の影に寝そべってぼく達のことを見ていました。

言うまでもありませんが、犬は暑がると、舌を口から出して息をします。舌を露出させることで少しでも体温を下げようとします。
唇の先端が少し上にあがるため、その様は、いつも笑っているか、楽しがっているかのようにぼくには見えました。ラッキーも木の影から舌を出し、笑いかけているように思えました。その時実際にはどれだけ暑がっていたのか、ぼくは配慮していませんでした。

3~4時間くらい公園で遊んだあと、ぼくらは家に帰ることにしました。途中で友達と別れ、ぼくはラッキーとリリーを連れていつも歩く道を歩いていました。
しばらく影となる場所がどこにもない一本道を歩いていたとき、焼け付いたアスファルトの道の先には、ゆらゆらと逃げ水のような光の反射が見えました。その水は、歩いても歩いても先の方へと行ってしまい、永遠に手に入ることのない幻でした。
途中、ぼくは自販機でスポーツドリンクを買いました。その時リリーが「だっこ」と言ってきたので、ぼくはリリーを抱え、自転車のかごに入れました。
ラッキーをかごに入れることはできませんでした。中型犬である上に太りすぎていて、持ち上げることもままなりません。だからラッキーは、そのままぼくに引っ張られ、焼けたアスファルトの上を直に歩き続けました。

自宅まであと100メートルくらいというあたりで、ラッキーはしゃがみ込みました。

ぼくは歩き疲れたのかなと思い、そのまま立ち止まりラッキーが立ち上がるまで待つことにしました。ラッキーは舌を出し、相変わらず笑っているようにぼくには見えました。
環状線の道路沿いで、車道にはひっきりなしに車やトラックが走っていました。トラックが走り去ると、ただでさえ熱い空気がかき回され、排気ガスと一緒に熱風となってこちらに吹き込んできます。ぼくはスポーツドリンクを一口飲みながら車の流れを眺めていました。
ラッキーは歩道の真ん中で横になりました。そして明らかに苦しがっていると、その時になってようやくわかりました。

「どうしたん?」

ぼくはしゃがんでラッキーに話しかけました。
ラッキーは何も反応せず、舌を出せるだけ出して荒く息をしていました。舌が紫がかっているのがわかりました。
ぼくは起こそうとラッキーの体の下に手を入れようとしたとき、やっとアスファルトがどれほど焼けているのかがわかりました。

「ラッキー、ごめん」

熱中症になっているとようやく気付き、とにかく病院につれていかないとと、持ち上げようとしました。
でも、ただでさえ重いうえにラッキーは体の力が抜けきっていて、簡単に持ち上げることができませんでした。とにかくぼくはラッキーに持っていたスポーツドリンクをかけて少しでも熱を逃そうと応急処置をし、また持ち上げようとしましたが、やはり持ち上げられずにいました。

「どうしたの」

近くを歩いていた女性が話しかけてきました。
ぼくは事情を説明し、病院の人呼んでくるといってそれまで見ていてもらうことにしました。そして一番近い動物病院の場所を思い出しながら自転車で全力疾走し、病院の看護師さんに事情を話しました。
看護師さんは、車を出してくれました。そしてラッキーが倒れてるところまで行き、ぼくは女性にお礼を言い、看護師さんと二人がかりでラッキーを持ち上げて車の後部座席に乗せ、そのまま病院にUターンしました。スポーツドリンクをかけられたラッキーは、体中がべとべとになっていました。

病院は、ぼくがお金を持ってことを知っていたにも関わらず後で払いに来てくれたらいいと言い、緊急手当てをしてくれました。
ぼくはそれでほっとし、もう大丈夫だなと思っていました。大丈夫と思ったら気が抜け、ぼくは病院においてあった動物の雑誌を読みながら回復を待ちました。

30分ほどして、獣医師さんが出てきました。

「残念ですが…」

獣医師さんがそう言った時、ぼくはうまく言葉を把握できずにいました。
病院にきたのだからもう大丈夫だと思い込んでいたのです。

ラッキーは診察台の上に横になっていました。まるで置物のように動きません。ただ紫色になった舌がだらんと口から垂れ、それも動かず、ただ垂れていました。
目が開いていたか、閉じていたかは、思い出せません。

看護師さんは、そのままラッキーをつれてぼくの家の玄関まで運んでくれました。
玄関からは、ぼくは抱え込みながらひっぱるようにして、リビングまでラッキーを運びました。

ラッキーが死んだとぼくが連絡をし、親が慌てて帰ってきました。
一言ふたこと、親と話をしました。ただ、親がぼくを責めることはありませんでした。

親は祖母に連絡をしました。そして、急遽車で祖母の家に向かうことになりました。
祖母の家の近くには、過去飼っていて亡くなった犬猫たちのお墓がありました。そこにラッキーを弔うためでした。
自宅から祖母の家まで、片道3時間かかります。親は高速を乗りながら、ずっとラッキーとの思い出に関して話続け、途中から泣きはじめました。
ぼくは、車の中に流れている音楽を聴くともなく聴いていました。車には宇多田ヒカルの曲と、槇原敬之の曲が流れ続けていました。

祖母の家についたのは深夜1時くらいのことでした。
そこでもまた、一言ふたこと話がありましたが、どんなことを話したのかは忘れてしまいました。
既にお墓の近くに穴が掘られていて、そこにラッキーを横にし、ビーフジャーキーやらアイスやらと一緒に埋めました。その日は祖母の家で一泊し、朝、お墓にお供え物をして、そのまま家に帰りました。

「なぁ、やっぱり俺らのせいで死んじゃったんやろか…」

その時一緒に遊んだ友達にラッキーの死を伝えたところ、友達はしばらく黙り込んだあと、しょんぼりとした声でそう聞いてきました。

「きっと、寿命やってん」

ぼくはそう答えました。

「こればっかりは仕方ないことや」

電話を切ってから少したってから、ふいにやり場のない怒りがこみあげてきました。
そう答えた自分の発言の中に、自分の浅はかさと偽善と、なんとも言いようのない独りよがりの自己中心さとが入り混じった自分の負の部分が凝縮して現れたような心地がし、それは以前にも時々感じることがあったものの見ないふりをしていた姑息な面を垣間見たような気がしました。
周りがそう言ってくれていることを悪用して自分を救済しようとしている狡猾さが嫌になり、しばらくの間、ぼくは最低な人間なのだと考えるようになりました。

今も、当時ほどは緩和されてはきたのですが、それは続いています。
こんな記事を書いていること自体、ぼくは、ぼくの中のある種の姑息さを感じとってしまいます。そしてそれはいつまでも循環します。「姑息さを感じる」と書く姑息さ。
一体ぼくは書くことで何を求めているのだろう。
そんなことを考えていると、またその中にある自分の姑息さを感じ取ってしまう。

「たかが犬の死じゃないか」

そんな言葉さえ、書いている間、自分の中に沸いては別の自分が説き伏せる。いいや、ぼくにとっては、たかが、じゃない。
自分の中から相反する言葉が同時に出てくるのです。矛盾。 そして書いている文章に垣間見える、ゆがんだナルシズムもまた、自分の狡猾さや、姑息さを感じさせる。

ぼくは書くことで一体何を求めているのか、考えが循環してしまって、よくわかりません。
ぼくは自分を今でも許してはいない。一方で、ぼくはそんな許さない自分を許してる。しかしその姑息さに対して腹を立てることもあり、一方で、それも含め自分なのだとも受け入れてる。
この感情をどう言葉で表せばいいのかよくわからないのですが、確かなことは、ぼくの行動で飼っていた犬を殺してしまったという事実は変わらないし、そこから何かの教訓を得ようとすることも、仕方がないと考えようとすることも、こうできなかったのかと自分を責めることさえも自分の中の偽善や姑息さを感じてしまう、そしてその感じてしまうことさえも姑息であると考えてしまい、そんな風にどんどんと考えが循環していくということです。そして循環すればするほど、その過程において「死」というそもそもの事実から無意識的にずらしていこうとしている理性の別の姑息さを感じとります。

客観的な答えならもう出ています。 明らかにぼくのせいで犬は死にました。

なのに「このことを考えていると考えが循環するんです」とか言ってるようじゃ、その事実をありのままに受け入れられるようになるのにはまだ時間を要するのでしょう。 事実をありのままに受け入れるというのは、本当に難しいです。

強さのニヒリズム

若い頃、しばらく哲学書にハマっていた時期があります。

といっても、当時厨二病をこじらせていて(今もこじらせているのですが)、哲学書を読むというのも単に「そういう難しいの読むぼく、いい」みたいなファッションとして読んでました。

ぼくが読んだ限り、哲学の本は一体何を言いたいのか全然わからんという類のものがほとんどで、ぼくの理解力が乏しいというのもあるのでしょうが、どの本も何度読み返してもちっとも内容が頭に入ってきません。 表象だとか、物自体だとか、形而上学的だとか、アンチノミーだとか、そんな硬くて偉そうな言葉が哲学本という文字の荒れ地の上にごろごろとした石ころみたいにあちこち転がっており、それらを砕いて意味という中身を知ろうとしても結局は砕かれた未知の石ころの破片が増えるだけという有様で、ただ言葉を砕いて中を知ろうとしてしまったがばっかりに砕く前に見ていた風景とはほんのちょっとだけ見え方が変わってしまって、その差異をうまく自分の目で飲み込むことができず、一体ぼくが眺めている(いた)風景は本当にその哲学書で表現したいものなのか、それともそもそもそんな風景なんてものは最初から存在しないのかが解らなくなって、途方にくれてしまうという有様です。そのくせ、哲学の毒は少しずつでも確実に読む人を蝕み、見え方を歪ませ、精神的な「嘘」に敏感になっていきます(と、すくなくとも厨二病を患ってたぼくは感じていました)。

そして今でも、その頃に読んだ内容は価値観としてぼくの中に根付いています。 色々な人から影響は受けたのですが、中でも一番影響を受けたのは、厨二病患者ならみんな大好き、ニーチェです。みんな好むものだから、斜に構えてむしろ嫌いだと仰るアドバンスド厨二病患者も最近はちらほらと見かけますね。なので、今回はニーチェの「ニヒリズム」に限定して書いていこうかなと思ってます。

ぼくも影響を受けてニヒリストではあるのですが、ただ、最初は彼の書籍から直接ニヒリズムを支持するようになったわけではありません。というより、彼の書籍のどこでニヒリズムについて具体的に触れられていたのかは結局最後までよくわからないままでした。「神は死んだ」という発言は何度か見かけましたが、彼が最後の方に書いた書籍は「もうこの人気が狂いはじめてるな」としか思えなかったし、難解で理解できませんでした。あるいは、単にぼくが読んだことのない書籍にかかれているのかもしれません。 そんなぼくがニヒリズムを知ったのは、ニーチェの解説本を通じてでした。そして、解説本から入る人にはおそらく陥りがちと思われる、弱さのニヒリズムにしばらくの間毒されていました。

存在に価値はないし、生きていることにも価値はない。この世界そのものにも目的や価値など存在しない。今なにかが起きているとすれば、それはただ「起きている」だけであり、それ以上の意味は存在しない。 この言葉は、もともと自分の存在に価値を見いだせずにいる者にとって、とても快く響きます。今まで自分の中だけに存在した無価値が、これまでからこれからも目にし、耳にし、指にふれる全ての対象へ膨らんでいく様は、フロイトの言う「死の欲動」を刺激し、テーブルから今にも落ちるか落ちないかわからない優柔不断なガラス瓶がついに落ちて床に砕け散ってしまった後に感じるような妙な安心感を覚えました。 もともと全ては無価値なのだ。自分が生きようが死のうがどうでもいいし、何をしようと何も変わらない、という思いは、水を吸った苔のように自分の中に浸透して膨らんでいき、ただ流されるままに生きていけばいいし、それで死にたくなれば死ねばいいという負の気軽さを感じさせました。

その中で、「ツァラトゥストラはこう言った」という書籍を読みました。 正直なところ、これもとても難解で、やっぱりこの人気が狂ってるというような印象を最初に感じました。その書籍には「永劫回帰」と後に言われる思想が展開されています。 永劫回帰について、わかりやすく説明すると以下になります。 (ただ、わかりやすく説明しようとする限り、おそらく真の意味からは遠ざかっているかとは思いますが)

もしも物質が有限で、時間が無限であり、今という瞬間は物質の並びによる組み合わせによって成り立っているとするならば、今という瞬間の組み合わせは過去にも無限回試行され、未来にも無限回試行される。

そこから更に思想を発展させると、無限という時間の中、今の自分の人生とまるきり同じもの、嬉しかったこともつらかったことも含め、生まれる瞬間から死ぬ瞬間まで全て、過去に無限回生き、未来にも無限回生きることになることになります。そのことをニーチェは「存在の車輪は永遠に回る」と表現しています。

それは輪廻転生とかとはまるきり違います。むしろ決定論的なもので、ものすごく辛いことも含めてすでにもう決まっていることで、そこからは何をどうやっても逃れることはできず、今まで無限回経験したことをさも初めて経験するかのように経験しなおすことになり、未来にも無限回経験しつづけることになることを指しています。 順風満帆な人生であればそれもやぶさかではないかもしれませんが、ほとんどの場合、人生とはつらいものです。良いことや成功もたまにはあるでしょうが、様々な失敗、裏切り、幻滅、絶望、孤独がついて回り、どの人にも最後には最後まで経験することができない死が待っています。死は大抵の場合は壮絶なものです。自分の外見や内面にコンプレックスがあったとしても、そのコンプレックスも無限回感じなければなりません。

この意味を知った時、これこそが真のニヒリズムなんだなと感じ、すとんと腑に落ちました。 自分が努力しようがしまいが結果は変わらないし、結果を変えようとあらゆることを尽くしても、すでに決まっているものを変えることはできません。全ての行動は、自分にとっては意味があると思えても、結果という面からは何も変わらない。意味があると思って行う行動すらもすでに決定付けられた行動であって、結果には何も貢献しない。

「どうせ意味がないから」といってやらないという選択自体もやはり過去に既に決定付けられており、その結果もやはり決定付けられている。その決定事項から逃れる方法は存在しない。どれだけ足掻こうが、決定によって踊らされる以外できない。いやー、厨二心をくすぐってくれますね。これこそ本当の虚無です。

少し話は逸れますが、永劫回帰量子力学不確定性原理を上げて否定するという考えもあります。物質の組み合わせを完全に確定させることはできないことは証明されている、という意見ですね。 あんまり語れるほど量子力学についても永劫回帰についても詳しくないので「そういう考えもありだよね」という感想ではあるのですが、ちょっと反論するとすると、不確定性原理はあくまでも「光子で観測するという特徴上厳密な観測・数値化ができない原理」であり、量子の配置を観測によって決定づける限界を表現している式です(と思ってるけど実際違うのかな?)。また、量子力学でも「情報の保存」という根本原則はあるので、不確定性原理と矛盾しているから永劫回帰を否定するというのは暴論じゃないかなぁと思ってます。まぁでもそういう考えもありですよね。真相はどうなのかというのはあんまり興味ないので、ぼくは別に否定しません。

話を戻すと、たぶん、永劫回帰の主張は「絶対に変えられないあらゆる行動と結果を肯定して生きていけるか」という点にあるのかなと思ってます。 なぜなら、同じ人生は過去にも無限回おき、今後も無限回おき続けるんです。肯定できない場合、無限地獄となります。

仮に今この瞬間に自殺をするとします。それで、今という瞬間は終わります。 でも未来でまた全く同じ人生を生き、そしてまたその瞬間になると、全く同じ理由で、同じ方法で自殺をすることになります。同じことは永遠に無限回続きます。 それも含め、肯定できるか。

今自殺をしないとしても、いつかは死が訪れます。今のところ、その事実に抗えた生命は存在しません。 それは10年後かもしれないし、明日かもしれない。わかりません。ただいつかは必ず、しかも突然やってきます。 大往生できるかもしれませんし、なにかを成し遂げようとしている道半ばで不慮の事故で死ぬかもしれません。胸に夢がいっぱいつまった状態で病によって終わりを迎えるしかなくなるかもしれないし、普通に生きていたのにある日突然胸を刺されて死ぬことになるかもしれない。あるいは自分が死ななくても、大切な人が今日死ぬかもしれない。生まれてすぐの赤ん坊が、何も幸せを与えてやれない中、お星さまになるかもしれない。 それも含め、肯定できるか。

そういった全ての結果を受け止めるというのは、簡単にできるものではないでしょう。 努力や抗いが結果として実にならなかった時に、あるいは大きな不幸が訪れた時、「それは最初から決まってることだから」なんて思うこと自体、あるいはナンセンスなのかもしれません。

ただそれでも前向きに生きることは、強さのニヒリズムに繋がるんだろうと思っています。たとえあらゆる結果が決定付けられているとしても、自分の選択さえもすでに決定付けられているとしても、一見すると選択の自由があるように見えるのだから、より良い人生を無限回繰り返すためにも良い結果となるように抗おうとすること、そこに価値がないと思っても、結果は決まっていると感じても、それでも積極的に関与しようとすること。そしてその結果を受け入れること。

あらゆる事象や、行動や結果は実際には無価値だ、とぼくは今でも考えることにしています。無限回繰り返される結果にはたしてどんな価値があるというのでしょう。

永劫回帰もやはり信じることにしています。ただ、「永劫回帰」という考え方にも価値なんてものはないと思ってます。 だって、たとえ結果が決まっているとしても、その結果は実際には目に見えるまでは自分にはわからないのですし、一見すると自分は色々なことを考え、より良い方向へ行くように行動できる自由があるように見えるのだから、そんな決定論にはたしてどこまでの意味や価値があるのでしょうね。それを信じなくても何も変わりはしないでしょう。そんな主張を知る価値すらないとも思ってます。

ただ、これらの主張は妙に気楽で心地良いんです。 最初にも書いた通り、もともとぼくは自分に価値を見いだせずにいます。だけど、これらの主張は「別に全てに価値なんてないんだからそれでいいじゃん」という気楽さを与えてくれます。 努力した結果実らなかったとしても、それを自分のせいだと考える必要もなくなります。かつ、誰か(あるいは何か)のせいにする必要もなくなります。 「まぁ、仕方ないよね」で済ませられる気楽さを与えてくれます。

自分にとって、気楽になるからとりあえず信じることにした、というのがぼくにとってのニヒリズムです。 あくまでぼくにとっての、です。別にその思想を他人に強いるつもりもないし、正しい正しくないとか論じるつもりもないです。正しくないと言われればそういう面もあるのでしょうが、自分にとっては何も価値がないほうが気楽になるから信じてるっていう設定にして生きてます。 (閑話休題ですが、多分思想と宗教の違いは、他人にも同様に求めるかも止めないかの違いだろうなと思ってます。何かを信じるという点では多分どちらもあんまり変わらないですね)

ぼくが好きな小説家の一人に「カート・ヴォネガット」という人がいます。 彼もニヒリストで、彼の書く作品はぼくの考える無価値感にマッチし、読んでるととても快いものがあります。 「タイタンの妖女」なんか、大好きです。あとは「母なる夜」「猫のゆりかご」「スローターハウス5」とか、最高です。

特に「猫のゆりかご」にでてくるボコノン教は、結構ぼくの無価値観にフィットします。 ボコノン教に書かれている、全てを「フォーマ<無害な非真実>」に塗り固めて生きていくというのは、実践すると気楽で楽しいものがあります。 もともと全ては無価値(とぼくは思っている)なのですから、無価値の中に自分の中で見出した価値というものは、全てがフォーマです。そして、たとえ本当は全てが無価値だとしても、自分の中で見出した価値を蔑ろにしたり、否定したりする道理もありません(もともと価値はないものを否定する中にすら価値なんてものはないんですから)。

ようするに、あらゆるものは最初から価値なんてないのだから、自分にとっての価値を見出していっても、何してもいいんですよね。世界に対しても、自分自身に対しても。 どんどんと見出していった自分だけの価値(嘘)を見つけ出していき、真っ白なカンヴァスに自分だけの色を塗っていく。その絵は実際には価値はないとしても、実際に価値などないのですが、自分が見出した価値であるなら、自分にとっては意味がある。そんな考え方が強さのニヒリズムとの付き合い方なのだと、ぼくは勝手に価値を見出し、思うようにしています。

最近思うことをつらつらと

このブログの名前を変更しました。

なんだか個人的に思うことについて発信する場がほしいなと(再び)思うようになったので、気が向いた時に、ここにつらつらと書いていこうかなと思ってます。

正直個人的な話なので読む価値はないです。ノートに書き連ねるというのでもよかったのですが、ブログにするのはそれでも誰かに読んでもらえたら嬉しいなって気持ちがどこかにあるのだと思います。

よくわかりませんが、多分そうです。 (もうぼくも36歳になるのに、未だにいつも自分が何をしたいのか、何故したいのかいまいちよくわかってないんですよね)

これまでブログは6〜7回くらい開設しては、途中で飽きて辞めるということを繰り返してきました。唯一まだ覚えてるブログは「たそがれブランチ」くらいで、過去のはURLすら忘れちゃいました。でも、ハンドル名は高校生の頃から変えてないから、探せば見つかるかも。探す気はさらさら無いけど。

最初に書いたのは高校生の頃です。その頃はまだブログというサービスはなかったので、ホームページに日記テイストで書く、というのをやってました。 当時はniftyチャットが盛り上がっていて、ぼくはそこで自分が興味のあったカテゴリー(小説や美術)に入り浸り、いろんな人と会話を楽しんでいました。 そのうち気の合う人達がでてきて、彼らと鍵部屋を作ってチャットするというようになっていきました。その突然ぽっと出来た小さなコミュニティはぼくが高校を卒業する頃まで続いたものの、ある時ふっと虹が消えるように気づいた時には自然と消滅していました。

また別の場所では、2ちゃんねるのとあるスレで痛いこと書いて荒らしてるコテハンの人がBBSを開設したとか言ってたので、軽く冷やかしにいってるうちに少し仲良くなりだし、同じように冷やかしにきてた一部の人達とも仲良くなりはじめたので、Yahooメッセンジャーやお絵かきチャットで会話をするようになりました。 彼らとは最終的にはオフ会を開いたり、美術館をめぐったり、家で朝まで飲んだりというようなことまでするようになったのですが、そのコミュニティもやはり、雨後の水たまりがいつのまにか消えているようにしてなくなりました。

今でもときどき、みんなはどこにいったんだろうって思うことがあります。あの時いろんなことで一緒に盛り上がり、ぼくなりに楽しい時間を過ごしていたという懐かしい思い出と共に、ふっとそれが夢だったかのように気がつけば生活の中からなくなっているという感覚は不思議なものです。盛り上がっている時にはずっと続くと思っていた間柄が、静かにフェードアウトし、影さえもなくなっている。普段は忘れているのですが、何かの拍子に思い出して懐かしんでいると、どうも、背中の内側あたりがもぞもぞと動くような心地になります。みんなは何処へ行ったんだろう。

でも、多分違うんでしょう。みんなが何処かへ行ってしまった時、考えるべきはきっと、自分が何処かへと行ってしまったということなのかもしれない。 ぼくは何処へ行ったんだろう?

ぼくはどうも、人との関係を維持するということが不向きのような気がしています。 ネットでつながった関係だけでなく、小学生の頃にあんなに仲がよかった人達とも今では疎遠になり、従姉妹といった親戚ともほとんど連絡は取り合わない。 もちろん連絡をもらえたら返しますし、その時に会話することになっても以前と同じように盛り上がります。関わりを拒否してるわけではまったくないので、つながっているといえば、つながっているのかもしれません。むしろ古い知人との関係なんてそんなものなのかもしれない。

でもたぶん、疎遠になるのが嫌なら自分から連絡をとるようにしたらいいだけの話なんですよね。それだけで、途絶える関係を途絶えなくすることはできるのでしょう。 ただぼくはそれをしようとはしません。

別に連絡をとることに対して後ろめたさもないし、やりたくないわけでもない。連絡しようかなっておもいつつ連絡とっていいかどうか迷って送れないみたいなこともないです(むしろそんなこと迷ったらとりあえずえいやって送っちゃえって思うタイプです)。単純に、昔からそういうことをする習慣がないんですよね。

人が嫌いなわけではないのですが、基本的にぼくは一人でいることが好きで、何をするにもベースが自分の中で完結しちゃってる。そのとき「誰かと」という発想は出てきません。 一人っ子の母子家庭で、母は朝から晩まで働いていたのでずっと一人で過ごしてきたからというのもあるのでしょう。自分ひとりで過ごすことに慣れていて、人に頼ることをそもそもしようとしない。 「そういえば最近あの人と連絡とってないな」 とか、考えない。結局のところ、そういうことを考える習慣がない。

その結果、自分から連絡はとらず、そういう風にぼくのことを気にかけてくれる人からしか連絡はこず、人間関係はどんどん狭まっていくんでしょう。 いまのところぼくはそんな気にしていないし、疎遠になっても「まぁしょうがないよね」くらいにしか思ってないので、まぁしょうがないですね。 ただときどきふと思い出し、みんな何処へ行ったんだろうと考えることがありますが。

でも、その感情も一時的なものです。陽の光が雲に遮られてふっとあたりが暗くなって、またもとの明るさに戻るように、その感情も、きっと生活の中の光彩を変化させてくれる要因のひとつでしかないのでしょう。

だけどやっぱり、ときどき知りたくなります。 ぼくは今、何処へ向かっているんだろう。

会社を退職して個人事業主になりました

2020年3月31日付けで前の会社を退職し、4月1日付けでフリーランス(個人事業主)になりました。 形から入りたいんで、もう名刺も作っちゃった。屋号は「BRBranch(ビー・アール・ブランチ)」です。

はい、屋号は酔ってる時に知人に相談しててえいやって決めちゃいました。なんだかんだこのハンドルネームずっと前から使ってて気に入ってるからまぁいいかなぁ。

ということで、この記事は退職エントリも兼ね、今後やっていきたいことや目標なんかをつらつら書いていこうと思います。自分の整理と、今後自分の心が折れた時に読み返そうというのが主な目的なので自分以外の人が読んでも多分面白くないです。

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